これが通称フードコンテナ。私が所有するものは正式には「Backpacker's Cache」と言い、バックパッカーの食料隠し場所的な意味になるだろうか。
正直なところ、フードコンテナなど観たことも聞いたこともない人がほとんどであろう。これは一体に何に使うのかと言えば、ベアカントリーにおいて、キャンパーがクマから食料を守るために使うものである。強化プラスティック製の角のない円筒形をしており、グリズリークラスの大型のクマが、力任せに押しつぶそうとしても、コロコロと転がるだけで、中身まで手を出すことはほぼ不可能。食料を素のまま保管するよりも、匂いが漏れづらいという利点もある。北米のキャンプ場などでは、頑丈な食料保管庫が併設されていることが多いが、バックカントリーなどでキャンプする場合には、この手のフードコンテナは必携である。
北米のキャンプ場にあるフードロッカー
日本屈指のベアカントリーである知床でも、「知床半島先端部地区利用の心得(2008年度 知床国立公園利用適正化検討会議策定)」内にて、半島先端部及びその周辺において野営する場合、フードコンテナの使用を強く求めている。
海側から見た知床岬周辺
知床では、遺産登録と並行して自然保護対象地域の核心部や岬への人の進入を制限する案が検討されてきた。実際に岬への船舶による上陸は禁止されている。しかし、半島主稜線を辿るルートや海岸線からのアプローチに関しては、今のところ規制は設けられていないため、夏季に徒歩で岬までやって来る人が後を絶たず、自然保護の観点から早急に立ち入りの制限を設けるべきとの声も多い。ただでさえ、台地状になった岬は増えすぎたシカたちの格好の餌場となっており、貴重な固有植物の群落が食害を受けて減少傾向にあるため、シカの頭数管理と植生回復が急務と言われているのだ。
今回の記事の発端は9月末のこと。まさにその知床岬へ羅臼側からトレッキングで向かっていたキャンパーが、途中の海岸にテントを張ったまま岬へと往復している間に、テントの食料をクマに襲われるという事件が起きた..一人はフードコンテナを持っていたが、もう一人は使っていなかった..のだ。レトルトカレーなどが食い荒らされた形跡があり、クマが味をしめた可能性があるため、現在は岬への出入りは自粛されている。実は7月にも同じ場所で、やはりトレッキング中に食料を狙われる事故が起きており、今回のクマはその時と同じクマではないかと見られている。
自分で埋めたシカの死体..彼の地ではこれを土饅頭と言う..を掘り出して食べるヒグマ。クマは自分のものだと認識したものについて、恐ろしいほどの執着を見せる。過去に起きたクマによる殺傷事故の大半は、奪われた荷物や食料(含む人の死体)などを取り返そうとして、クマに逆襲されたものがほとんどである。
先の立ち入り制限を設ける考えに反対する意見もある。特にアウトドア愛好家を名乗る、主にはシーカヤックなどで旅をする人たちの間では、上陸禁止に対し反対の声が多数上がっている。彼らの主張は、知床は誰のものでもない、また誰でも自由に行動できる場所であるべきだということらしい。もちろん国民共通の財産である国立公園である以上、ルールに則っての利用については、その通りであるとも言える。
しかし前述のような事故が起きるのも、結果ではあるが事実なのである。しかもそれは事前に十分想定された事態であり、あのような行為..周到な準備もせずベアカントリーに足を踏み入れる..に出れば、当然起きて然るべきであったのだ。
事故の当事者は道外の人で、事情に明るくないから致し方ないという意見もあるようだが、何をかいわんや。知らないから何をしても良いなどと言ういい加減な声が、どれだけ事後の同行為に及ぶ人たち、また関係者に迷惑をかけていることか。彼らのやったことは、知床を知り尽くし、知床の自然を守るべく日夜活動してきた先人たちの行為を踏みにじるものであり、冒涜以外のなにものでもない。フードコンテナを持っていない、または忘れてしまったなどという自分勝手な理由で、自分自身の命やその後にそこを訪れる人の命を危険にさらし、最悪の場合は当事者であるクマの命まで奪うことにもつながってゆくのだ。
クマは我々人が作り出した極端な二面性を持つ希有な動物である。一つは、クマのプーさんに代表されるような愛玩動物としての顔。そこから来るイメージはどこか呑気でのろまな感じを受けるであろう。そしてニュース報道に登場する実際の姿と言えば、「どこそこでクマに襲われた」的な、我々人に対して危害を加えてくるという、野生動物が本来持つであろう粗暴かつ強大な強さに対するイメージ..これを凶暴と書くことでさらに悪いイメージとなる..に他ならない。縫いぐるみのクマは人は襲わない。しかし実際のクマは人を襲うこともあり得る..それとて「時と場合によっては」という前段があるのだが..という当たり前の事が、どれだけ一般に認知されていないかと言うことだろう。
大型犬程度のツキノワグマでさえ、ひとたび怒れば人を殺傷するのはたやすい。それがヒグマともなればなおさらで、とりわけ北米大陸の北部に分布するグリズリーは巨大かつ強大だ。ツキノワグマがせいぜい大きくても120kg前後..平均すると80前後だろう..であるのに対し、アラスカ州のコディアック島に棲息するブラウンベアは、最大では700kgを超える個体もいるのだ。とても人の太刀打ちできる相手ではない..
このキャンプサイトで事件は起きた..
私が以前、南西アラスカのカトマイにおいてキャンプした際、早朝..白夜で一晩中明るいのだが..テントの外に気配を感じ、何事かと入り口のジッパーを下げて外を見ると、目の前ほんの数mのところを、今自分が入っているテントよりもはるかに大きいクマが、それこそのっしのっしと通り過ぎて行くのを見たことがある。思い出すことさえ冷や汗ものなのだが、件のクマはこちらに一瞥くれるだけで、素知らぬ顔で湖岸へと去っていったのだ。クマが去った方向からは、注意喚起すべくフライパンやコッヘルを激しく叩く音が響いてきたが、私は恐怖でしばらくテントから出ることができなかった。もちろん食料はフードロッカーに収めてあり、何より時期的に川にサケが遡上していたので、クマたちは人にはほとんど興味を示さないのだが、このとき肌身に感じた恐怖は、ヒグマという地上最強の肉食獣と対峙したことのある人にしか理解できないことであろう。
コンテナの蓋には「SAVE THE BEARS」の文字が。クマから食料を防ぐためのコンテナに、クマを守れの文字が印されていることの意味が、果たして事故の当事者にどれだけ理解できるものか..
※クマとの遭遇、その時あなたは..
http://bigdipper.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_fa9c.html
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