最初のページをめくると、いきなりクマの冬眠穴から外を覗いたシーンで始まります。このカットがこの本の持つ雰囲気を全て作っていると感じられる素晴らしい写真です。

「山わたる風(柏艪舎発行)」は、北海道のバックカントリー(原野)をテーマにした写文集形式の単行本です。内容は朝日新聞北海道版に連載された同名のエッセイの再構成で、著者は北海道在住の伊藤健次氏。その名を聞いて「ああ、あの人か」と判る人は、まだそれほど多くはないでしょう。
伊藤氏は若くして日高山脈冬期単独縦走などをこなすいわゆるホンモノの山屋で、よく雑誌で目にするようなただきれいな景色を撮るだけの観光写真家とは、その経歴からして一線を画しています。また、ザックに出来る限りの食料と機材を詰め込んで、可能な限り自然の懐に踏み込んでいくというその撮影スタイルも、どこか星野道夫氏と同じような匂いを感じさせますね。写真に添えられた文章ににじみ出る微妙な味わいも、一日一夕で書けるものではないので、それすらご本人の才のうちなのでしょう。
私が伊藤氏を最初に知ったのは、私自身が渡道目的の一つとしているある生きもの棲息状況を探るべく、道内の山の状況を知るために斜里の本屋で買った山のガイド本が最初でした。その時は失礼ながら著者はただの山屋さんなんだなくらいにしか思っていなかったのですが、その後何年かしてメジャーなアウトドア雑誌に大雪のクマの写真が載ったのを見て、「日本にもこんな風にクマを撮れる人がいるんだな」と感心したのを憶えています。
日本でクマ..ここではヒグマを指しています..の写真と言えば、知床の某川でサケやマスを捕まえて食べるステレオタイプな写真が大半ですが、その時見た氏の写真のクマは、小雪の降る中静かに座っていたのです。写真は瞬間の一シーンに過ぎませんから実際はそうでないかもしれませんが、確かにその時のクマは「静かに座っている」ように見えたのです。野生動物、とりわけクマを1枚の写真に表現する時、生きものですから当然動きのあるシーンを狙いがちです。しかし、そのたった1枚で静寂からその後の冬ごもりまでを連想させた氏の写真は、なかなか感性鋭いものだと感じたものです。
伊藤氏がテーマに据えているのは北海道の原生自然ですが、北海道をテーマにした写真集を見ていて共通に感じるのは、「どこかで見た眺めだなぁ」という感覚です。自分自身がその場に立って見たことがあるというのもありますが、次々に発刊される写真集の類どれをとってもそれほど同じようなシーンばかりだというのも事実です。話は少し逸れますが、例えばあたかも世界自然遺産登録ブームに乗るかのような、知床などとタイトルに付こうものならもう言わずもがなですね。全くの私見ですが、今のところ知床をテーマにしていて本物と呼べるような内容の写真集は一冊もありません。昔から沢山の写真家が足を運びつつも、誰一人としてモノに出来ていない場所が知床なのです。
車を乗り付け道路脇に三脚を立て、目の前の美しいシーンに感動しながらそれをカメラに収める。それ自体別に悪いことではないですが、巻末や帯に踊る「自然を大切にしましょう」的な薄っぺらなメッセージには、どこか空虚感や偽善的なものを感じてしまう..私の感覚がひねくれているのもある(笑)..のです。その言葉の意味ほどに内容に重さを感じないのですね。自然を単なる風景として周りから漫然と眺めているだけでは、自然や野生が内包する本質に迫るのは難しいということです。
そう言った観光写真と伊藤氏の写真の異なる点は、自身の脚で大地を踏み歩きそこに到達した者でないと撮れないオリジナルのシーンにあります。周りからだけでなく内からの視点も大事にしていて、尚かつそれを遂行するだけの技術と体力、そしてそれらに裏打ちされた経験の豊富さ。それらを併せ持ついわゆるホンモノだけに許される世界感があるという点です。冒頭で紹介した、クマの冬眠穴を外からでなく内から撮るという視点、そして何より「地に足の着いた北海道の自然を撮りたい」と言う氏の言葉がそれを物語っていますね。
星野道夫氏以降、増産されるのは観光写真家ばかりで、なかなか表現者たるホンモノの写真家が出てきません..あくまで私見です..が、伊藤健次氏には次代の自然写真家としてその活躍に期待しております。
最後に惜しむらくは何故この本がこのサイズ(46版という文庫本よりやや大きい程度)なのかということ。出来ればもっと大きなサイズで、しっかりとした写真集として発行して欲しかったと思います。