手前からホッキョクグマ、ヒグマ、ツキノワグマ、マレーグマ。群馬県立自然史博物館にて。
遭いたいか遭いたくないかという話は抜きにして、一般的にクマと遭遇するシチュエーションで最も多いのが、ある日突然森の中でバッタリというケースです。それは山歩きをしていてか、森の中を散策していてか、はたまた山仕事をしているときか、農村部で野良仕事をしているときか。何れにせよ、出逢ってしまった双方とも相当に驚くことになりますが、そこで万一人に何らかの被害が出てしまうと、人にとってもクマにとっても悲しい結末が待っていることになります。
接近遭遇を避ける対策としては、クマにこちらの存在をいち早く知らせること以外にはないので、クマがいそうな場所..ベアカントリー..では、よく言われてるように鈴やラジオなど音を立てることが有効です。誰かと話しながら歩くのもそれなりに効果的ですね。実際、近所の農家にも畑の真ん中に小さな小屋を造って、そこであらかじめ録音しておいたテープをラジカセで一晩中流し、鳥獣被害から一夏畑を守った人もいます。
山岳部の倅のザックにも鈴が。
話がそれますが、音を出すことについては場所をわきまえて欲しい場合もあります。私もよく出掛ける尾瀬では、木道を歩るきながらクマ除けと思われる鈴を鳴らしている人を沢山見掛けます。大抵鈴はザックにくくりつけられていますから、一々外すのが面倒なのは判らなくもないですが、渋滞になるほど人出のある真っ昼間の木道上でクマに遭遇することまずありません。早朝や夕暮れ時、それに人通りの少ない場所を除いては、できれば鈴を仕舞って欲しいと思います。そうすればそれなりに静かな尾瀬が戻ってくるはずですので。
冬ごもりの前に雪が降ることもしばしば。知床峠にて。
どんなに注意をしていても、それでも出逢うべくして出逢ってしまうケースもあります。クマとの距離が離れている場合、特にクマがこちらに気付いてなければ、静かにその場を立ち去ることが肝要です。写真を撮ろうなどと、わざわざこちらか近づくなどしてはいけません。もし距離が離れていてクマもこちらに気付いているようならば、大声を出したり、大きな音を立てたりしてこちらの存在を明確に教えましょう。クマは鼻はよく利きますが目は良くないので、こちらが風下の場合など気が付かないことがあるのです。
そして近距離で接近遭遇してしまった場合。そんな時はとにかくまず落ち着くことです。どんな状況であってもクマを刺激してはいけません。大声を出す、大きな音を立てる、いきなり走って逃げる..クマが全速力で走ると時速60km程度は出るので、走って逃げることは不可能..などは、もっともクマを刺激し最悪は怒らせてしまうことになります。
決して目をそらさずゆっくり後ずさり、クマから徐々に遠ざかってください。もし置いてある荷物等をクマに奪われたら、中にどんなに大切なものが入っていようとも、キッパリ諦めてください。絶対に荷物を取り返そうなどと考えてはいけません。クマは一旦自分のものと認識したものにはかなりの執着を見せるので、取り返そうとすると奪われと思いこみ、途端に逆襲してきます。70年代に北海道の日高山脈で起きた熊害事件では、ヒグマに取られた荷物を取り返そうとして、大学生3人が命を落としています。
アイルソンビジターセンター(Denali N.P Eielson V.C)のグリズリーの頭骨。
よく木に登って逃げる..木に登った時点で行き止まりですが(笑)..という話も聞きますが、これはあまりお薦めできません。北海道や大陸に生息する大きなヒグマはあまり積極的には木に登りませんが、小型のヒグマやツキノワグマ、それに北米に生息するクロクマなどは木登りが得意なので、よほど進退窮まったとき以外はかえって危険です。ちなみに私の友人に、クマから逃げるべく木に登ったものの、そのクマが木に登ってきてしまい、クマの写真を携帯電話のカメラで撮った強者がいますが、絶対に真似をしてはいけません(笑)。
知床のクマ対策で使用中のゴム弾と花火弾。
いよいよ逃げ場無くクマに襲われてしまった場合はどうするか。これはもう二者択一になります。一つは抵抗せずに為されるままにすることです。以前に北米のアラスカ州にあるカトマイ国立公園のレンジャーに言われたのが、「両手を首に回して頸動脈を守りつつ、ザックを背に地面に伏せて丸くなり、クマが立ち去るまでひたすら待つ。」という方法です。そうです、いわゆる「死んだふり」というやつですね。クマがさほど怒ってなければ、手や足を噛まれることはあるかも知れませんが、その内諦めて立ち去ってくれる可能性はあります。
アラスカ大学博物館(University of Alaska Museum)で出迎えてくれるグリズリーの剥製。優に3mは超えている。
そんなクマ任せ運任せは嫌だという人は、もう一つの選択肢である、戦って撃退する以外に手はありません。格闘家や血の気の多い人ならば、40~50kgクラスの若いツキノワグマ程度なら何とかなるかも知れませんね。その時、鉈や山刀(ナガサ)等の武器になるものを携行していれば、多少希望の光は差すでしょう。しかし成獣のクマ、それもヒグマになるとまず勝ち目はないでしょう。何しろ北海道の雄のヒグマは成獣で200~300kg、アラスカ州の沿岸部に生息するブラウンベアなどは500~600kg..中でもコディアック島の個体は世界最大で約700kg!、話は飛躍しますが、ホッキョクグマに至っては600kg以上あり、もう何をかいわんやですね。
調査には必携のカウンターアソルトと鉈。
鉈や山刀による肉弾戦は嫌だという場合、クマから身を守る護身用の道具として、近年脚光を浴びているのがカウンターアソルト、通称「クマ除けスプレー」です。中身は赤トウガラシのエキスを抽出した強力カプサイシン入りのガス..いわゆる催涙ガス..で、これを浴びると目や鼻それにのどは無論のこと、皮膚に付着しても強い刺激を受けるため、クマの攻撃性を減退させることができます。クマ除けと聞いて虫除けを連想、山に入る前に自分の体に噴射した人がいるとかいないとか..と言う冗談はさておき(笑)、奥山放獣の現場ではすでにその効果が立証されており、スプレーを浴びたクマが苦しそうな声を上げて、脱兎の勢いで森へ逃げ帰っていく様を何度か目にしています。
しかし、スプレー方式ということからも判るとおり、クマに決定的なダメージを与えるためには、クマに対し風上から5~7m程度まで近寄る..状況的には相手から近寄ってくるから使用するわけだけど(笑)..必要があります。しかも強い噴射が続くのはせいぜい5秒程度なので、1回使って終わってしまえばそれっきり、つまりチャンスは一度きりということです。激しく威嚇しつつ突進してくるクマに対し、果たして冷静にスプレーを噴射できるものなのか、使う前によく考えた方が良いかもしれません。
10年くらい前までは国内でほとんど見掛けることの無かったクマ除けスプレーですが、最近は街のアウトドアショップに普通に売られており、そのせいか何の変哲もない一般の人が持っているのを時々見掛けます。そして困ったことにクマ除けスプレーを持っているというだけで安心してしまい、ベアカントリーで大胆な行動に走ってしまう輩がいるのもまた事実です。カウンターアソルトなどクマ避けスプレーは、事が起きてしまった後..つまりクマに襲われるという事態..にしか使い道がないので、本当に最後の手段になることを肝に銘じて行動して欲しいものです。
ヤマブドウの実を食べるヒグマ。知床の森にて。
私も調査や撮影でベアカントリーを歩くことが多く、実際にクマに出遭うことはそう希なことではないので、普段から森歩きでは注意するようにしています。もちろん目には見えずとも、山や森にクマがいると思うことで畏怖の念を抱くことができ、傲ることなく謙虚な気持ちで山や森に入ることができると考えています。